愛妻に先立たれ八十路をたんたんと生きる

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(1)マジョルカ陶器コレクション寄贈に寄せて

令和4年春、岐阜県土岐市役所において「小林元マジョルカ陶器コレクション」の披露展示会が開かれた。このコレクションは私がミラノ滞在中に収集した16〜20世紀のマジョリカ陶器42点を同市に寄贈したものである。

マジョルカ焼きとは、中世に中近東から伝わった焼き物の技術をもとに、14〜5世紀ごろにスぺイン風の趣向が加味され、マジョルカ港から地中海世界に輸出された陶器のことである。当時イタリアでは、まさにルネッサンスがはじまろうとしていた時期であり、この焼き物は人物や自然の風物を思いのままに描くことができる格好の素材として受け入れられ、「マジョルカ焼き」の名のもとに多くの作品がイタリアの各地で製作され、その伝統は今日まで引き継がれている。

ここでなぜ私が、イタリアの地でマジョリカ焼きを収集することになったかを説明しておこう。1983年以来、2度にわたり14年間、私はミラノにおいて600人ほどの社員を抱えるアルカンターラ社の経営に従事していた。現地ではミラネーゼたちが美に対してきわめて鋭い感性を持ち、それが個人の仕事にも発揮されて、競争力あるビジネスを作り上げていくことに驚嘆した。そこで私は、彼らの感性が表現された古いものを収集しようと思い立ったのである。とはいえ、絵画には手が出せるはずがなく、目にとまったのがこのマジョルカ焼きであった。

だが、マジョリカ焼きといっても、ルネッサンス期のものとなるとミラノの骨董店で何百万円という値がついていて手が出ない。仲間のミラネーゼに聞くと、手ごろな値段のものを手に入れたければ、ナビリオ運河沿いの青空骨董市か道具屋がいいという。道具屋は主に家具類を専門として遺産の一括買取りをなりわいとしているため、焼き物に疎い者が多いから狙い目だと教えてくれた。

実際に道具屋に行ってみると数万円から十万円台のものも並んでいる。これなら私でも手が届きそうだ。だが問題は、偽物が多いことである。自分自身で判別できる目を持たないといけないと考え、イタリアにあるマジョリカ焼き美術館めぐりがはじまった。大コレクションを所蔵しているロンドンのロイヤルアルバート美術館にも足を運び、2,3年すると真偽の判断がおよそつくようになった。

その次に大変なのは、ネゴ上手なイタリア商人とのやりとりだ。これは慣れるよりほかはなかった。イタリア語でおだてたり、脅したりのテクニックも覚えた。

こんなことがあった。なじみの道具屋に行くと、主人が「大家の遺産を買い取ったから見てくれ」という。見回すと隅にマジョリカ焼きが垣間見える。リグーリアサポーナ窯の薬壺で17世紀のものだ。だがこういう時には、いきなりお目当てのものに興味を示してはいけない。がまんして古い家具類についての主人の自慢げな説明を聞いた。最後になって「ところであの隅に放ってある焼き物は、いくらか」と尋ねると、主人は「ああ、あれか、あなただから3万円にしとくよ」という。これは掘り出し物だと思い、1万円相当のリラを手付金として払った。

1か月ほど経ってこの店に顔を出すと、主人が私に向かって直立不動で敬礼するではないか。「あなたは焼き物のプロフェッセーレだ。あの後、プロの骨董屋があの焼き物を見て10倍の価値があるという。だからその値段にしたい」と。

それから侃々諤々のやり取りが続いたが、最後に「ここに残金を記した書類があるではないか。あなたはミラネーゼだろう。地方のあきんどならともかく、ミラノの商人であるなら約束は守れ!」と一喝して、やっとのことで収まった。

今、このコレクションのカタログを見ていると、一つ一つ買い求めた時の風景が鮮やかによみがえってくる。買い取りたいという日本の骨董商もいたが、そうするとコレクションは散逸してしまう。折よく、「織部」や「志野」を産んだ日本の三大焼き物の産地といわれる美濃地方の土岐市が、私のコレクションに大変興味を示してくださったので寄贈したというわけだ。マジョリカ焼きのコレクションが展示されたものは日本唯一という。

私は今84歳、自分の一生の総決算をしている最中である。私が何とか人生を全う出来たのも、多くの方々が私を助けてくださったからであると感謝の念でいっぱいである。今回のマジョリカ焼きの寄贈は、そうした方々に対するささやかなお礼であり、私としての最後の社会貢献になれば、これに過ぎる喜びはないと考えている。

小林 元 (こばやし はじめ)

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