◆ 渋谷の歴史と未来 ◆
| 1.東京炎上 昭和17年4月18日、アメリカのB25爆撃機16機が東京を爆撃した。永井荷風はその日の日記にこう記録している。 「この日午後敵国の飛行機来たり弾丸を投下せしことを知りぬ。火災の起こりしところ早稲田下目黒三河島浅草田中町辺なりといふ。」「人の語るところを聞くに大井町鉄道沿線の工場爆弾にて焼亡、男女職工2〜300人死したる由。浅草今戸辺の人家に高射砲の弾丸の破片来たり怪我せし者あり、小松川辺の工場にも敵弾命中して火災にかかりし所ありといふ。新聞紙は例の如く沈黙せるを以て風説徒に紛々たるのみ。」 真珠湾攻撃の開戦から4ヶ月の時点で早くも空襲を受け、翌年には灯火管制もはじまった。 荷風は昭和18年4月6日に書く。「3、4日前より米国飛行機来襲の虞ありとて街路暗黒なり。六区興行町の映画館は夕方閉場。芝居寄席は八時頃打出しにするという。」 その年の7月1日、35区からなる東京市が、東京府を改めた東京都の特別区になる。現在の23区はほぼその境界線のままで昭和22年に再編され、60年後の現在にまで至っている。特別区は戦時体制を引き継ぐものともいえるのだろうか。末端では隣組が昭和15年の内務省通達により組織されたが、それは市町村行政の下請け機関として整備された町内会の下部組織となったものだ。昭和17年7月には大政翼賛会の指導下に置かれることになって地域社会の戦時体制が徹底した。それと同時に疎開が始まる。 昭和18年9月28日「来10月中には米国飛行機が必ず来襲すべしとの風説あり。上野両国の停車場は両3日この方避難の人たちにて俄に雑踏し初めたりといふ。」12月31日「疎開トイフ新語流行ス。」翌昭和19年6月29日「東京の繁華は昭和八、九年を以て終局を告げたるものと見るべし。」この年の8月4日には東京からの学童疎開が始まった。 11月24日の武蔵野の中島飛行機空襲以来、連日の空襲警報。29日丸の内方面爆撃。昭和20年1月27日有楽町・丸の内空襲 2月16日横浜空襲、2月25日雪の日の空襲。神田駅、小伝馬町、浅草橋、蔵前、雷門、馬道、菊屋橋辺、神田川両岸和泉橋南北の町、御徒町より上野駅東南側の町一帯が焦土化した。 3月10日には午前0時からB−29爆撃機325機による爆撃。千住から芝まで城東一帯が焦土に。この日は東京大空襲の日として知られる。死者10万人、被災者100万人の規模となる。その被害に対して日本政府の責任を問う訴訟が平成19年に起こされ、司法当局の判断が注目されているように、空襲被害は現在の問題としてもまだ残されているのだ。 その後も空襲は続いたが、大規模だったのは、5月24日と25日の山手大空襲といわれるものだ。5月24日の午前1時5分に空襲警報が発令され3時50分に解除されるまで、B29が558機来襲。2時間にわたり3600tの焼夷弾が投下され、死者760人、負傷者4130人の犠牲があった。25日は夜10時22分から翌午前1時まで、498機により高性能焼夷弾3300tが投下され、死者3242人、負傷者13706人というより大きな犠牲を出している。3月10日の下町ほどの被害ではなかったとはいえ、死者約6400人の阪神・淡路大地震の較べても、5月の山手大空襲の被害を過小評価すべきではない。 荷風の5月25日の日記には、その日の朝のことから書かれていて、以下の情景は夜半からの空襲が終わった26日のものだろう。 「余ら三人頗る途方に暮れしがこのままあるべきにあらねば過る貨物自動車の中厚意にて人をも戴するものあるを見、それに乗りて渋谷の駅に至れり。このあたりも道玄坂の両側をはじめ一望悉く焦土なり。」 5月29日にも午前8時12分から45分まで空襲があり、上目黒で被害がでている。 現在の西郷山公園付近で5月29日の空襲で自宅を焼夷弾により焼失した人の話。当時は駒沢公園となった駒沢錬兵場の砂煙がよく見えたという視界の広がる場所だった。黄燐の焼夷弾が500坪の敷地に数十個落とされ、消すことが出来ずに自宅は全焼した。 焼夷弾の形は幅1メートルほどの立法体。庭には不発弾がいくつも散らかっていた。 近所では焼夷弾を消し止めた家もあり、下町とは違って家が密集していなかったため、 延焼せずに自然鎮火したのが救いともいえた。男手は兵役で不在の中での防空壕生活となったが、井戸水があり、 廃材が燃料ともなって焼け残った風呂に入ることができたことは幸運だったということだ。日本は勝つと信じていたが 、空襲警報を聞きながら食べることだけで必死の毎日。8月15日は空襲の不安から開放された日でもあった。 渋谷の駅周辺はほとんど焼け野原だった。東横百貨店の建物だけが内部は破壊されたもののかろうじて外観を保っていた。 |