えり子と婚約する

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翌日の朝食のお膳にえり子からのメモが載っていた。「今日朝ごはんの後父がお会いしたいと申しております。父には昨夜私からきのうのこと話しておきました」とあった。

「来たな」と誠は丹田に力を入れて、そそくさと朝食をすませ、宿の奥にある廊下を抜けて母屋に入っていった。そこには江戸時代中期に建てられたという一面が50センチもあろうかと思われる四角の大黒柱がデンと据えられた大広間が広がっており、奥の方に50歳がらみの男が座っていて、その横にえり子がいた。彼が自己紹介をすますと、その男は「えり子の父です」といい、「君か、森川誠君というのは、話はえり子から聞いた。前高の生徒会長をしてたんだってな。そして今慶応の経済で学んでいるのか」とざっくばらんに話かけてきた。そして大学で専攻している分野やどんな仕事に就きたいのか、又私の前橋の実家のことなど聞いてきた。

5分ほど話を交わしてから、「俺は、見たとおりの田舎者だ。だが先祖代々の田畑を引き継いでやってきてもう30年近くなる。その間何万人という人を見てきた。だから人を 見る目はそこそこ持っているつもりだ。俺が見る限り君はなかなかの人物だ、磨けば将来が楽しみであることぐらい分かる。えり子も人を見る目ができたということか。」そういって娘の方を見て笑った。

「俺は、今日はすごく嬉しいんだ。もう一人楽しみな息子ができたのだからな。誠君、 えり子はお前に任したぞ。幸せにしてやってくれ」。彼はそう言うと用意していた当地では随一といわれる銘酒を注いで、新しくできた息子と、手塩にかけて育ててきた娘の前途を祝して、盃を交わした。

 その後床に臥せっているえり子の母と宿を切り回している彼女の兄に挨拶して、部屋に帰り今後の段取りの案を決めた。まずこの夏休み中に父親とえり子が前橋に来て、誠の両親と顔合わせをする。冬休み中にささやかな婚約の儀をこの家で行う。結婚するのは再来年の初夏のころ、彼が会社勤務一年を経験して、仕事とはどんなものか多少慣れてから、またえり子が大学を卒業してからとする、これで両家の了解を得ることにした。

 彼はさっそく自宅に帰り、両親に説明した。父は「お前はもう大人だ。人生の伴侶を自分で決めたのならそれでよかろう。とにかくその人に会ってみたい。」といわれた。

 7月の末えり子と父親が前橋に来て、利根川に沿った高台にあるホテルの最上階のレストランで誠の両親と会席料理をともにした。えり子の父は榛名の宿であったのとは別人のようで上下を背広で固め、「この度は縁あって私どものえり子が」と心妙な挨拶をした。ひと通りのあいさつが済むと眼下に流れる利根川とかなたに雄姿を見せる赤城山、榛名山の話になり、彼の父が戦後赤城山からの洪水に二度もやられたことを語り、えり子の父は江戸時代から浅間の噴火には悩まされ通しで来たことなどの話で盛り上がり、若い二人のことなどそっちのけで両家は意気投合したようであった。「それではそういうことで、話を進めることにしましょう」という締めで宴はお開きになった。

二人を見送った後、父は「おい誠、実にいいお嬢さんじゃないか、気にいったよ。お前も隅には置けない奴だなあ。末っ子の嫁がこれで決まり俺もひと安心だな」とつぶやいた。 母はしばらくの間無言だったが数日たって末っ子を手放すことへの気持ちの整理がついたのか「いい娘さんを見つけたわね、きっとあなたのいい奥さんになるわよ」と言ってくれた。

小林 元 (こばやし はじめ)

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