えり子に愛を告白する 

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夏休みに入り彼女に約束したとおりあの榛名神社の宿に向かった。えり子は彼が宿の玄関を入ると、飛び出すようにして迎えてくれた。「貴方には3年前泊まっていただいたあの部屋を取っておいたの。初めてお会いして、英作文を教えていただいたところ、覚えていらっしゃる?」 部屋は机や座布団もあの時のままで、3週間過ごしたあの日々の記憶が鮮やかに蘇ってきた。彼はまず一風呂浴びて、旅の汗を流し、えり子が用意した宿の浴衣に着替えた。「村の夏まつり昨日から始まっているの、もう夕方になるから盆踊りも始まっているわ、行ってみましょう」と促されて二人で踊りのある広場に向かった。広場は神社の背後にあり中央に舞台が設けられ数人の男衆が壇上で太鼓をたたいており、数十のたいまつがあたりをこうこうと照らし出し、既に100人近くの老若男女がおどりの輪をつくっていた。「踊りに加わりましょう」と彼女に誘われて、彼も列の中にはいり見様みまねで踊つた。しばらくしてえり子が「疲れたでしょう、休みがてらこの辺りを散歩しましょう、素晴らしいところがあるの」と彼を誘った。

そこは神社の裏手にある山道だった。両側にはつつじやささの群れが迫っていた。ときどき二人ずれや若い人達の集団と出会ったが、彼はそうした一人一人の投げる羨望のまなざしを軽く受け流しながらある期待と不安に交錯されていた。えり子はあの澄み切った瞳を輝やかしながらしゃべっているのだった。彼はその瞳の中に踊りの赤い火が一瞬映ったような気がした。彼女は薄紅と紫の花模様をぼかした浴衣を着ていた。丸いうちわは機械的に空を舞い、髪は肩まで流れていた。涼風の立つたびに髪が散ってその爽やかな香りは彼をつつんだ。話は彼女のゼミの授業にかんするものだった。けれども彼には彼女のそんな話が遠く彼方から響いてくるように感じられた。

「何を考えていらっしゃるの?」とえり子は覗き込むようにしていった。「少し休まない、私いいとこ知っているの。小さい時寂しかったり、叱られた時いつもそこにいったの。薪木取りに来てみつけたのよ。私よりほかにだあれも知らないとこ、あなたにだけ教えてあげる」そういって彼女はいたずらっぽい目を彼に向けた。彼はそうした言葉の中に彼女の内面の一角をのぞいたような気がした。この快活でよく笑う少女、時には彼を言い負かそうと 気負ったりする彼女が、そうした一面を持っていることは、驚きであり、喜びでもあった。なぜならそれは彼自身に外ならなかったからである。「いらっしぃよ、」と言って彼女はまことの手をとった。その掌は柔らかく彼の手の中にあった。ささをかき分けながらえり子は先に立って進んだ。「ここよ」という声とともにあたりは開けた。きれいな夕焼けだった。

影絵の様に横たわっている山の輪郭だけが赤く輝いて、そこから澄み切った空へ光が放たれていた。二人はしばらくそこに立ちつくしていた。ひきつった手を通してお互いの暖かさを感じながら。

突然彼はえり子の方に顔を向けていった。「婚約の話は断って欲しい。私はえり子お前が好きだ、だからずっと私のそばにいてほしい。私の妻になってほしい」と。

大きく見開かれたえり子の瞳の中に彼の顔があった。突然その瞳が大きくゆれて、一筋の 線がえり子のほほを走った。彼は顔を近ずけて閉じたまぶたの上に唇をおした。涙が心地よく舌の上を流れた。「私には、わかっていたの、貴方が私を好きだってこと。わたしもうまことさん以外の人のお嫁さんにはならないってきめていたのよ、」そういうなり彼女はさも嬉しそうに彼の方に身をよせてきた。彼はそのほっそりした肩を抱き寄せた。

少女のみずみずしい肌の香りは彼を包み、甘い唇の感触は彼を遠いとおいい世界へと運んでいった。そこは彼ら二人だけの世界だった。争いも、懐疑も、悲しみもなく、あるのは永遠のやすらぎだった。二人は原罪から解放され、すべて神の御手にゆだねていた。 全き信頼、愛、信仰がそこにはあった。

今やまさに没せんとする太陽は、今一度その輝きをまし、自然の懐にいだかれた二人を 照らし出した。まことは彼女の胸に顔をうずめ、永遠の母なる泉の清らかな流れにひたっていた。えり子の手は、やさしく彼の髪の中にあった。

おびただしい鳥の群れが西を指して飛んで行った。踊りの火と太鼓の音は一層高まっていた。そして、あたりは徐々に闇の中に吸い込まれ、やがて二人の姿もその中に消えて行った。

小林 元 (こばやし はじめ)

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