慶應義塾の開かれた世界に入る

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日吉駅を降りると正面にまっすぐな道があり、その両側には広大な大学のキャンパスがひろがっていた。ここが大学の前期を過ごす場なのだな、私は暫し足を止めて眺めいつた。構内に入り経済学部の掲示板を見てまず驚いたのは、新学期のカリキュラムが貼ってあるのだが、先生の名前の後に皆「君」がついている。著名な教授方も「君」ずけしている。後で聞いたことだがこれが塾の伝統だという。今まで自分がいた教育の世界とはずいぶん違うなと思い、何か気が大きく晴れ晴れとする気分になった。次に驚いたのは私がまさに学びたいと思っていた一般教養の科目がズラッと並んでいたことだ。西欧の哲学、歴史、音楽、美術、といった諸講座がある、さらに外人の先生による英会話講座まであった。しかもこれらの講師は外部の一流の先生ばかりである。例えば西洋音楽史を講義してくれるのは村田武雄先生、当時NHKの「音楽の泉」を放送中で、私は毎回逃さず聞き入っていたまさにその人である。先生の話を生で聞けると思うと、心が躍る思いだった

これからは親元を離れて初めて一人で暮らすのだ。まず寝起きするところを探さねばならぬ。下宿者募集のコーナーを見て、日吉駅の大学とは反対側に歩いて15分ぐらいの処で、当時はまだ畑の中にポツポツと数件家がある程度だったが、その中の一軒に恰好の8畳間を借りることができた。2食付きで月6千円だったとおもう。今考えると考えられぬ安さだ。

それから郷里に帰って、寝具を行李に入れて前橋駅に持って行って送る。当時は宅急便などなかった。こうした住まい作りを自分で手間をかけてやるしかなく、当時は親元から通える仲間をうらやましくおもったが、今になって考えると、若いころ自分でなんでも苦労してやる癖をつけてよかったと思う。まさに「かわいい子には旅をさせよ」だ。

4月入学式が終わって、一年生のM組の指定された教室に入ってまず違和感を感じたのは、自分が丸刈り坊主であること、見回すと何人かは仲間がいたが、クラス60人の1割ぐらい。地方出身者の引け目を感じた。次に感じたのは方言。群馬県は関東圏だから、それほどひどい方言はないのだが、「行くの」という言葉が言えない。郷里ではこれは女性が言う言葉だ。言えるようになるには、半年ぐらいかかった。

授業が始まって驚いたのは、経済学はSamuelsonの「Economics」原書を使って講義する。 先生は矢内原助教授、東大の矢内原総長のご子息で、ケンブリッジ大学に留学して帰ったばかりの気鋭の学者で、時々ケンブリッジ流にせき込んでみせたり、ユ―モアを飛ばしたりしながら、どんどん進めてゆく。予習復習しないとついてゆけない。フランス語はあの難しい発音を叩き込まれた。下宿への行き返りに発音の練習をしていたら、下宿の奥さんから『今度おたくに来た学生さん、何かおかしいんじゃないの、歩きながらモグモグ言っているわよ』と八百屋のおばさんが言ってた」と言われた。

下宿でよかったのは、今まで食べたことのないうまいものが夕食に味わうことができたことだ。郷里では魚といえば塩付けか干したものだったので、生のぶりの煮つけのあの舌の上でとろけるような食感はたまらなかった。下宿のご夫妻はお二人とも高校の先生で、うるさいことはゆわなかったが、目に余ったのか「靴はそろえてぬいでくださいね」などといわれた。2歳の女の子がいて、休日には庭でボール遊びなどお相手をしたから、日焼けしてきて受験で疲れ切った体も徐々に回復してきた。

小林 元 (こばやし はじめ)

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