えり子との出会いーその2―

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その風の第二波は数日を置いてやってきた。夜の9時頃だったろうか、英語の勉強になるかと思って丸善で手に入れたサマセット モームの「of human bondage」を読んでいると、彼女はいつものようにスーと入ってきて、「英語を教えて」といいながら、宿題なのか和文英訳したものを私の机の上に広げた。「これモームの原書じゃない。やっぱり貴方は、読むものが違うのね。これ英訳しているのだけれど、どうもうまくいかないの、教えて」。えり子はそう言いながら、にじり寄るようにして私のわきに座り込み訳文を読み上げ始めた。

彼女の黒髪が風に吹かれて私のほほをなぜていった。少女の肌の甘い香りがほのかに漂い、私には彼女の読み上げる英文も半ばうわのそらであった。何とか文法上の間違いを指摘してその場をしのいだ。そして「文法的に正しいものを書きたいならこの本を読むといいよ」と言って一冊の本を勧めた。彼女は「私、英語それも学校で教えるようなものではなく、生きた英語を勉強したいの。NHKの松本亨先生の英会話はのがさずきいているわ。まず東京に出て学んで、それから世界に出てみたい。いろいろなものを見聞きして、自分の可能性を広げたいと思っているの」といった。

「それは僕も同じだ。実家は医者で親父は僕も医者になってもらいたいらしいのだが、幸い姉が既に医学の道を歩んでいるから、僕がビジネス界に進むのを許してくれそうなのだ。 君と同じように、広い世界に出たい。この地域にとどまるなんて息がつまりそうなんだ。

何か多くの人が幸せになれるような仕事がしたい。例えば人々の所得を増やすにはどうしたらよいか。だから経済学をやってみたいと思っている。こんなことを言うと「君はまだ甘いお坊ちゃんだな」と仲間にはよく言われるんだけど」。私がそういうとえりちゃんは「そういうお話聞くと嬉しくなっちゃう。私たち意気投合しちゃったみたい、今日はなんだか素晴らしい日ね」そう言い残して去って行った。

年増のお手伝いさんに後で聞いた話だが「あのえりちゃん活発でいい子でしょう、お嫁に行ったお姉さんと東京でホテルの修行をしているお兄さんがいていずれもおとなしいタイプなのに、彼女はお父さん似で元気いっぱい。本当はえりちゃんがこの宿を継ぐのが一番などと私たちの間では話しているの」だという。

 

小林 元 (こばやし はじめ)

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