えり子との出会いーその1―

PDFファイル


あれは私が一浪して、春に東京の予備校に通い疲れがたまったので、夏は山あいの涼しく静かな宿で一人勉強する傍ら、一息入れようと思い見つけた榛名山の中腹にある宿だった。

近くには数百年の歴史を誇る榛名神社があり、あたりはうっそうとした古木で囲まれていた。宿は千坪ほどの屋敷の一角にあり、母屋は江戸時代に建てられもので、代々その地域の庄屋を務めていたという一家が経営していた。20室ばかりあり、宿泊客は、私のように数週間単位で滞在する大学の先生方、院生、受験生、古くからの馴染みの家族といったところだった。朝昼食はお手伝いさんが個室に運んでくれ、夕食はいかにも古色蒼然たる食堂でとるのがならわしだった。私にとっては夕食が楽しみの一つで、食べたこともなかった鯉のあらいや初めて口にする地場のとれたての野菜や穀物がめずらしかった。なんでもこの宿の主人は、その地の伝統野菜を保存しようと呼びかけ栽培しているグループの中心人物であるとのことであった。もう一つの楽しみは、夕食の際たまたま同席した人たちとの出会いであった。家族ずれとの打ち解けた話も面白かったが、収穫はある著名な大学の教授と知り合いになれたことであった。教授は国文学専攻で、著作を書きあげるためにこの宿に来ていた。

彼も一息入れたいときは、私の部屋に顔を出して、私が読んでいた「三太郎の日記」をとりあげると「今の受験生はまだこんなものをよんでいるのか」などと興味深げにみていた。

「ところで君、この宿のえりちゃん知っているだろう。お母さんが病勝ちだから、夕食の時などあれこれ使用人に指図をしているのを見ているだろう。彼女はこの家の次女で高崎女子高に通いながら、宿を切り回しているんだから偉いもんだよ。女子高でも相当できる方らしいよ。俺のところにも古文の難しいのを持ってきて、先生教えて、なんて言ってくる。それになかなかの美人だ。君も話してみたらいい」とのことだった。

私の日課は、朝食が済むと、午前中は勉強、昼食をとって一息入れたら、宿の周囲を散歩する。それからまた勉強、夕方宿の温泉につかって、夕食。その後テレビを見て床に就く。浪人の日課などというのはそうした単調な時間の連続であった。

ところがある日の朝思ってもいなかったことが起きた。 朝食を済ませて、音がするのでいつものお手伝いさんが食器をとりに来たなと思って見ると、若い女の子だ。先生が言っていたえりちゃんではないか。そしていきなり私に向かって「私。えり子です。ごめんなさい、突然入ってきてしまって。貴方、前橋高校の生徒会長をしてたんですって、そんな人が家に泊まっているなんて知らなかった」と言うのである。「うん、それはやってたけど。誰もやり手がない、クラス委員の会でも決まらない、生徒会が成り立たないという、それなら俺がやってやろうかと思っただけ。大したことじゃないよ。それより誰からそんなこときいたの」と尋ねると、「ここにあなたの同級生が泊まっているの、その人から。でも皆が受験のことしか考えてない今の高校生活の中で、生徒会長を引き受けたなんて私尊敬しちゃう」そういうと彼女は去つていった。

まるで一陣の風が吹き抜けたようだった。その風は私の部屋の中にある爽やかな香りを残していったようで、その日は勉強に身が入らなかったのを覚えている。

 

小林 元 (こばやし はじめ)

目次