ヘルマン・ヘッセとの出会い

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私がヘッセの名前を耳にし、彼の小説を読むようになったのはいつ頃であったろうか。

多分中学生になりたての頃、「青春は美わし」を読み、高校生になってからは「車輪の下」を読みふけった。そこに描かれた淡い青春の恋、美しい自然描写に取りつかれたものである。

その後私は受験勉強の渦中に取り込まれ、彼の書からは離れていた。

私にヘッセの名前を思い起こしてくれたのは、イタリア人の友であった。私はその時もう50代後半になっていて、イタリアのミラノに滞在して10年余りたっていた。彼とはその年の冬、室内楽のコンサ―トでたまたま隣の席で知り合ったのだが、ドイツリ―ドのことから詩人に話が及びヘッセの名が出てきたのだ。「ヘッセが好きなのなら、いいところに連れてってやろう」と彼は言い、ミラノの中心部にある「ドウモ教会」の屋上に私を連れていった。

そこは地上50メートルはあろうかという高所でミラノ市が一望できた。特にその日は晴天に恵まれスイス方面のアルプス山脈を一望することができた。「あれがMonte Rosaだよ」と彼は夕日を浴びてひときわバラ色に輝く山を指差し、「ヘッセはドイツに生まれたのだが、晩年はスイスのあの山の麓に住み着き、生涯を終えたのだよ」と教えてくれた。

自宅に帰って、日本から持ってきておいたヘッセ全集を取り出してみた。そこで分かったのは私が愛読していた彼の書は初期の青春賛歌の部分であって、その後彼が自我に目覚め、あふれ出る詩情をおさえがたく詩人を志したいのにたいし、彼を聖職者のエリートコ―スに進ませたいとする彼を取り巻く周囲の意向との葛藤の中で苦悩の日々が続き、つぃに16歳にして学業を放棄して、書店の見習い店員になった。そうしながら彼は詩人を目指すのだが、この世には詩人になる教育課程などないから独学でやるしかない。 それからの人生は苦難の連続だったといわれる。しかしそれを乗り越えドイツを代表する作家、詩人としてノ―ベル賞を受けるまでになった。

彼が苦難の時書き残した詩の中にこんなのを見つけた。

短く切られたカシの木

カシの木よ、お前はなんと切り詰められたことよ!
なんとお前は異様に奇妙に立っていることよ!
お前はなんとたびたび苦しめられたことだろう!
とうとうお前の中にあるものは反抗と意志だけになった。
私もお前と同じように、命を切り詰められ、
悩まされても、屈せず、
毎日、むごい仕打ちをさんざんなめながらも、
光に向かつて新たにひたいをあげるのだ。
私の中にあった優しいものを柔らかいものを
世間があざけって、息の根をとめてしまった。
だが、私というものは金剛不壊だ。私は満足し、和解し、
根気よく新しい葉を枝からだす、
いくど引き裂かれても、
そして、どんな悲しみにも逆らい、
私は狂った世間を愛し続ける。
        −「詩集」 高橋健二訳

そのころ私は仕事の面で苦難のどん底にいた。私が勤務していた会社は、70年代に日本で開発したきわめて独創的な技術をイタリアに持ち込み、現地の会社と合弁で双方が実質50:50の決定権を持つ構成で運営され、社長はイタリア側から派遣され、ディリーオペレーションも現地側が行い、日本側からは中部イタリアにある工場に2人の技術者が派遣され、私は副社長として、ミラノにある本社にいた。幸い業績の方は日本の技術とイタリア人が持つ感性マーケティング力がうまく結合して順調に推移していたが,創業後20年もたち業績も上々となると、イタリア側も自信をつけてきて、 当初の合弁契約では進出が制限されている分野にまで手を伸ばそうとし、現地側派遣の社長と当初の取り決めに従って日本側の利益を 守ろうとする私と日々衝突が絶えなかった。

小林 元 (こばやし はじめ)

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