イタリア人のライフスタイルの神髄

−ミラノに14年間住み着いて分かったことー

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3 イタリア人のライフスタイル

(4)男たちのこじゃれな装い

イタリアの会社に出勤して驚いたことの一つは、男たち、とくに管理職連中の装いへの気配りであった。社長職に任命しているイタリア人などはその典型であった。季節は冬であったが背広の下につけるベストを毎日変えてくる。それも見てすぐわかるカシミアの最高級ブランドものだ。淡色で背広やネクタイの柄に調和していて、彼なりの美の世界をつくっている。翌日は別の調和の世界をつくってくる。それが一週間続く。

会社の月例管理会議は工場の管理職がミラノに出張してきてやるのだが、12月だけは我々ミラノ本社の者が工場(ウンブリア州)にまで出向いて会議をやり、その後にちょっとしたご馳走が出て年末の慰労会をやるのが恒例になっている。

驚いたことに社長は、慰労会になると装いを変えるのである。会議の時着ていたじみな装いから、皆とくつろいで楽しく語り合うにふさわしい明るい基調の装いに変えるのだ。 そのためにミラノから装い一式を持ってくる。私はウ―ンとうなってしまつた。そこまでやるのかと。

私は本稿「感性に生きるイタリア人」のところで、イタリア人の装いには自分なりの装いを作り上げて自分が楽しむことのほかに、自分という人間の階級をさりげなく表現する意図があるように思うと述べた。

赴任して数か月たったころだろうか、金曜日であったからか、私はブレザーとかえズボンといういでたちで出社したことがあった。帰りがけに廊下ですれ違ったイタリア人同僚から「当地では管理職以上の人は上下おそろいの背広を着るのが習わしなのですよ」とささやかれた。私は改めて事務所内を見渡し、彼が言う通りなのだと悟った。

働く時がかくのごときなのだから、週末に彼等が装いにどれだけ気を配るのは推して知るべしであろう。このような基盤があるからこそ、ミラノのファション産業はいまだに健在なのであり新進気鋭のデザイナーたちが続々と生まれてくるのだ。会社の隣に大手日系企業のイタリア法人がありそこにパリジャンヌが勤務していたので、ある時「パリの装いと比べてミラノはどうですか」と聞いてみた。彼女の言うには「ミラノの人は男女ともパリの人のおそらく倍のお金を装いにかけていますね。パリの装いはもっとカジュアル化しています」と。

振り返って日本の現状と比べてみよう。会社では装いで自分を表現したり、自分の身分を示す考えは希薄になっているといっていいだろう。皆と同じような装いをするのが良しとされている。かって江戸時代には階級によって着る素材がおのずときまっており、絹は限られた上級武士、それ以下は木綿とされていた。そう言った決まりは維新後も尾を引いていたが、第二次大戦後の平等化の中で希薄になったのだと思う。

そのような日本の会社の下で育った私が装っていたものがイタリア人にどのように見られたかについては、本稿「感性に生きるイタリア人」のところで詳細に書いているのでご参照願いたい。

ついでに申し上げておきたいことがある。ミラノに14年も住み着いた私は、思うに日本人の中でもファションに縁遠いところにいた私であったが、はじめは現地の環境に適応することをしいられたが次第に装いで自分を表現することの楽しみがわかってきたのだと思う。 帰宅の途中ちょっとこじゃれな店によると店主が私に似合うものを見つけてきてくれて、私なりの装いの世界をつくってくれた。それを買い求めて身に着けると、まず女房にほめられ、イタリア人にも評価される、その様にして装うことの楽しさを知ったのである。

今手元にはそのようにして買い求めたコ―ト、セーター、ズボン、スポ―ツシャツなどが20点ぐらいあるのだが、日本での付き合いの場では場違いかなと思い着ていけないものが多く眠ったままになっているのは残念である。

ただ救いなのは、ミラノの店で「貴方に似合うものは何か、それで自分の装いの世界をどのように作るのか」を教えてもらったのがまだ頭のどこかに生きているので、今でも時にはここ横浜でこじゃれなものを扱う店を覗いてみて、ミラノ風な自分の装いに合ったものを見つけて身に着けてみるのが楽しみの一つになっていることである。

小林 元 (こばやし はじめ)

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