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インタビューシリーズ: 駒場の人たち



山崎さん

大平さん

第2回(2008年3月7日)

東大前商店街の歴史

東大電気 山崎増男さん、大平ふとん店 大平国栄さん

東大電気を45年間にわたって経営されている山崎さんにお話をうかがいに行ったところ、その 数年前から商店街で活躍されていた大平さんもいらしたので、お二人に東大前商店街の昔話をしていただきました。


―― こんにちは。今日は東大前商店街について一番よくご存知だろうからということでうかがいました。

そうだねえ。もう一番古くなっちゃったかな。大平さんはぼくより何年か前からだけど、店を構えていて今も店主という意味ではそうだなあ。 最初は前のアゴラ劇場のところに店を開いたんだけど劇場ができてからこっちにきてね。東大電気というのは東大前商店街にあるから東大電気なんですよ。 なんで東大前かというと昭和40年までは東大前の駅が商店街の階段の上にあってね。それで東大前商店街といっている。 東大前駅が駒場東大前駅になって今の場所になっても昔はもっと学生が下りてきていたなあ。飲み屋がいろいろあって、 マージャン屋も隣のイーグルのところとか7〜8件あって、朝から賑わっていたものだよ。 それでもちゃんと大臣なんかになってしまうんだからね。

―― へえ、どんな人が来ていました?

学生じゃ誰が誰だかわからないし、第一うちはマージャン屋じゃないしね。 東大を卒業した人の大半はこのへんでマージャンやってたんじゃないかな。それに酔っ払いも多かったなあ。

―― でも今はマージャン屋がなくなってしまった。

そう、マージャン屋がなくなったのは何年前かなあ。東大紛争のあった昭和44年頃から学生が来なく なったのかもしれないね。マージャン屋は西から、及川、クボタ、階段の下にあった赤提灯の飲み屋千両の2階に西本。 隣の喫茶イーグルの上もマージャン屋だった。 炊事門の方には植竹という1階が蕎麦やで2階にマージャン屋があった。

―― それと駒場寮がなくなりましたね。

駒場寮が10年ほど前になくなってからは一部の学生が食事に来たり弁当買いに来たりするくらいになってしまった。それと現在の日本工業大学駒場高校の正門が 東大前商店街の通りから西口の方に移ってしまってね。それも人の流れを変えた。

―― 東大前商店街は随分変わっているのですか?

昭和30年代はにぎやかだった。店の数も100軒ほどあったが、今ではその3分の1かなあ。それが昭和40年に東大前駅が駒場駅と一緒になり、駒場東大前駅になってから様子が変わってきた。それから43年に東大紛争が起こり、それ以来、踏み切りのところの門が閉鎖され、 商店街と東大構内の行き来ができなくなって人の流れが変わってしまった。

それと20年前に青木理髪店の前にあった風呂屋がなくなり、その影響がこんなに大きいとは思わないほどだった。風呂屋には1日300人から500人の人が来ていたのだから、今から考えると大変なことだったのだ。 そばにあった川上うどん店なんかは学生で道が一杯になるほどだったよ。

東大前の駅からすぐの階段の下には蕎麦屋の山口屋があり、そこでは学生の歓送迎会なんかに頻繁に使われると共に、町会などの会合の場所にもなっていた。 今の町会事務所はそんなに古くはない。

バーとか居酒屋が何軒もあって東大生が夜中まで騒いでいたもんだよ。うるさいんで怒鳴ったこともよくある。風呂屋には、ラグビー部の連中が汚いままで来るので、追い返されたこともあるようだ。夏なんかは裸で歩いていた。そういえば学生の酔っ払いにうちの看板もっていかれたりしたなあ。 今の学生はその頃と較べるとずいぶん上品になっているよ。

でも今じゃそんなところが住宅になってしまっている。道路が曲がっていること、坂道で自転車が使いにくいことも商店街として の立地条件を悪くしているのだ。

―― ところで、東大前商店街のこれからは?

昔は大橋の方からも買い物に来ていた。東大の学生も渋谷や下北沢に行ってしまう。西口にはエレベーターがあって高齢者は商店街に出る東口を使わない。東大前商店街は西の方まで続いていたんだけど、 事情があって分かれてしまったなあ。

コンビニができると豆腐も雑誌も間に合ってしまう。商店街はどこもそうなんでここだけの問題じゃあない。

東大の学生をあてにするわけにはいかない。20年ほど前からそれまで町会が小学校でやっていた盆踊りを商店街でやるようになり、毎年沢山の人が来るようになった。地域に商店街があることは結局地域の人にプラスになるわけだから、地域の人にもっと愛される 工夫があるとよいのかもしれないけどね。むずかしいとは思うんだけど。