◆ 渋谷WESTの200年史 ◆
1926年〜1965年(昭和元年〜40年)
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東急の街渋谷 昭和元年から昭和40年までの40年の間に現在の渋谷の形ができた。戦前・戦中の20年と戦後20年、戦災をはさんで、それぞれ大きく変貌していった。また、この期間についてまとめた文献は最近の40年を扱ったものより多く出されている。 昭和20年に空襲を受けるまでの20年間で、東横線(昭和2年)、井の頭線(昭和8年)、地下鉄線(昭和13年)、東横百貨店(昭和9年)そして玉川線のターミナルとなった玉電ビルが昭和13年にできて、駅を中心とする街の形ができた。渋谷のシンボルのようなハチ公の銅像も昭和9年に建てられた。このわずか10年余りのあいだに東京の西側に渋谷という街が誕生したのだ。 また、松涛、南平台の高級住宅地も大正末期から昭和10年頃にかけてできあがったようだ。つまり、現在の渋谷の原形はこのわずか10年の期間につくられたといってもよいだろう。そしてそれは、東急グループの創始者五島慶太という一人の事業家の、鉄道を作ることで不動産価値を高める戦略の賜物だったともいえそうだ。戦後の20年を含め、東急の渋谷の40年だったのではないだろうか。 一方の駒場では農科大学が東大農学部として本郷に移り、第一高等学校がその後に入ってきた。現在の駒場Uキャンパスの敷地には、昭和5年、東京帝国大学航空研究所が設立され、寺田寅彦、本多光太郎 といった日本の頭脳の粋が集まった。また、加賀百万石の前田侯爵邸が昭和4年に現在の駒場公園の地に建てられた。本郷の屋敷の土地を東大と交換したことから駒場に移ってきたのだ。 昭和20年5月25日夜半、山の手一帯は焼夷弾による空爆を受けた。山の手大空襲ともいわれている。これにより渋谷駅から駒場にかけての商店・住宅が被害にあったのだが、焼夷弾を消しとめた家も多く、一面の焼け野原というほどでもなかったらしい。闇市がにぎわうのは戦後のことだが、その前にも渋谷には露店の店が数多く出ていたといわれている。 戦争が終ると、明治神宮の南の代々木練兵場跡にワシントンハイツができ、アメリカ人が渋谷に進駐してきた。渋谷駅前の闇市ではいろいろトラブルもあったようだ。恋文横丁の名前が出たアメリカ兵宛の手紙の代筆屋は昭和25年に朝鮮戦争が勃発してからのことらしい。日本女性とアメリカ人兵士を結んだ街として歴史に残ったことになる。 戦争中は軍人の利用でに繁盛した円山花街は、連合国軍の慰安所に指定され、「当時の芸妓たちが身をもって一般婦女子の防波堤になっていた」とともに、渋谷に「いかがわしい女が群集する状態にもならなかった」(渋谷区史)そうだ。その後昭和26年に結成された渋谷ホテル旅館組合が中心となり、旅館街からラブホテルの街へと変身をとげて現在に至っている。 駒場は大学の街であるとともに陸軍の街でもあった。昭和20年に陸軍がなくなるとその用地ばかりか、建物までが公共施設として転用された。東京農業教育専門学校附属中学校(筑波大附属中高校)、社会福祉法人愛隣会、駒場高校、目黒一中など、すべて陸軍用地が転用されたものだ。公務員住宅や機動隊の用地ともなっている。 駒場キャンパスは一高が昭和25年3月に昭和24年に創設された東京大学教養学部に包摂されたのだが、組織名が変わった程度の変化だったのかも知れない。同時に、駅名が一高前から東大前になり、一高前商店街も東大前商店街になった。商店街は昭和40年に東大前駅と駒場駅が一緒になって駒場東大前駅になるまでがよき時代であったようだ。この時代、駒場駅までバスが来ていた。 昭和39年の東京オリンピックに向けて山手通りが切り開かれ、淡島通りも拡幅された。東大裏から目黒川にかけて、現在の山手通りにそった街の風景が一変したのだ。この山手通りは当初は別のルートが考えられていたらしいのだが、大きな道路がどこを通るかでまちの光景は全く違うものになる。 この時代、日本中がめまぐるしく動いていて、街の風景、景観に気をとめる人は少なかったろう。 |