◆ 渋谷WESTの200年史 ◆
1886年〜1925年(明治19年〜大正14年)
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陸軍・東大・円山花街 1986年からの40年は、明治19年から大正の終りまでだ。駒場野の軍事訓練の場が駒場農学校が設立される過程でどうなっていたのかは不明だが、明治24年から陸軍の騎兵実施学校、近衛輜重兵営、騎兵第一連隊営が淡島通りの南側、すなわち享保年間から御用屋敷であったところに設置さていった。どれだけの軍人がそこにいたのかは分からないものの、渋谷近辺にあってはこの陸軍施設の人口密度が特に高かったことは想像できる。施設への訪問者をあてにした店も淡島通り沿いにできたようだ。ちなみに、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公のひとり、秋山好古の名による騎兵第一連隊の日清・日露戦争での犠牲者の名を記す碑がこの敷地の西端に残されている。また駒場高校のグランドの横には天覧台という大きな碑があり、ここに明治天皇が延べ11回行幸したことを記念している。明治30年には池尻方面に広大な駒沢練兵場ができ、このあたり一帯は帝国陸軍の一大演習拠点となったのである。 駒場農学校は明治19年に東京農林学校となり、明治23年には東京帝国大学農科大学となった。こうして陸軍と東大のまち駒場となり、この近辺では人口密度が高かったはずだ。それも若い単身の男性居住者の多いまちとなった。 現在の渋目陸橋の下にあった農科大学の正門まで、青山通りから分かれた馬車の通り道が栄通りとなったようだ。農科大学の正門跡といわれていたコンクリートの柱が平成17年まであったのだが、現在は撤去されている。 この栄通りは松涛茶園への道でもあったが、明治23年以降、東海道線の開通により静岡から茶が運ばれるようになると、次第に茶の生産が減っていった。 明治40年には玉川通りの路面電車玉電が開通し、渋谷駅と世田谷方面が鉄道で結ばれた。 池尻、駒場の軍人の社交場、軍需業者の接待の場として円山花街が発達し、それに呼応して道玄坂に飲食店や商店が並ぶようになっていった。円山花街は大正12年の関東大震災の直前には芸妓数420名の規模になっていたのである。 見番通りと呼ばれた神泉仲通りの入り口近くには芸者を管理する見番があり、このあたり当時は渋谷駅周辺より賑わっていたと想像できる。東横デパートができて買い物客が集まるようになるのは昭和に入ってからのことだ。 また関東大震災は東京一の盛り場浅草に打撃を与えたため、箱根土地会社が住宅地にしようとした百軒店に下町の有名店を誘致し、一時は大いに賑わうことにもなった。こうして、駒場方面の軍関係の人たち、さらには東大の関係者の需要に対応する形で、渋谷の街の発展がはじまったといっても過言ではないだろう。 |