◆ 渋谷WESTの200年史 ◆
1846年(弘化3年)〜1885年(明治18年)
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駒場農学校 1846年からの40年は激動の時代だ。元号では弘化3年から嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応を経て明治18年までとなる。 鷹場の駒場野は1853年のペリー来航からの幕末の危機にあって、幕府の軍事訓練の場となっていった。幕府に雇われた外国人を含むさまざまな人の行き来が盛んになったと想像できないだろうか。 駒場野の鷹場を拡張して大演習、射撃訓練にすることを提案したフランス人の軍事教官の提言を受け、慶応3年に幕府は周辺の調査を開始した。ところがこれに住民が反対運動を起こし、駒場野一揆と呼ばれる事態となったが、結局そのまま12月に大政奉還を迎えてしまった。 明治元年4月には江戸城の明け渡しがあった。そこに天皇が京都から皇居を移したのは明治2年。その翌年の明治3年4月17日には駒場野で1万8千人規模の軍事演習が行なわれた。その折に明治天皇行幸があったことから、その記念碑が駒場小学校の敷地内に明治天皇駒場野聖跡碑として昭和12年6月に建てられている。閲兵のため野立ちした場所ということだ。駒場尋常小学校が開設されたのが昭和9年だから、小学校の敷地内に碑をたてたことになる。この閲兵にあたっては新政府から土下座無用ということで、住民はたったままで天皇の行列を見送ったそうだ。 しかしこの土地は何故かその後演習場ではなく、学校の用地となる。明治10年に農学校の建設が始まり、11年1月に開校の式典が天皇や政府高官臨席のもと挙行された。この時の敷地は6万坪であったとされているが、明治17年には16万5千坪になったとあり、鷹場であった土地がそのまま農学校の用地になったといってよいだろう。 駒場農学校の定員は明治10年11月に200名と決定していたようだが、翌12月の入学者数は農学科25名、獣医学科18名、試業科6名となっている。全寮制度で洋式教育が行われ、英語による講義も行われていた。教師は当初5人のイギリス人で、それに加えて「助教」ないし「委嘱教員」ということで日本人もかなりの数が任官していたらしい。明治3老農といわれた船津傳次平もその一人であった。船津傳次平は駒場野の原野を開墾するとともに、日本農業の講義を担当した。 明治13年から、それまでに解任された当初のイギリス人教師に代わって、ドイツ人教師の任用がはじまり、明治14年にオスカー・ケルネルが来任した。農芸化学によるプロイセン農法の導入のためである。空川の最上流部に船津傳次平らが開拓した実験用の水田でケルネルが土壌や肥料の改良に取り組んだ。その水田は120年以上たった今日でもケルネル田圃として知られ、筑波大付属中高校や駒場小学校の生徒が田植えなどを通じて農業教育を引き継いでいる。 松涛は紀州徳川家の下屋敷であったのを佐賀の鍋島家が払い下げを受け、明治9年松涛園という茶園になった。玉川通りの反対側は、明治7年には豊後岡藩の屋敷を西郷従道が購入し、翌8年には菅刈小学校が開校している。 山手線が開通する前の渋谷は、赤坂方面から駒場を含む上目黒村へ高官を運ぶ馬車が通りすぎるだけのところでしかなかっただろう。渋谷駅ができたのは明治18年。この時期までは、御用屋敷や駒場農学校の周辺が、現在の渋谷駅のまわりより人が集まる場所であったことは間違いないと思う。 |