◆ 渋谷WESTの200年史 ◆

1806年〜1845年(文化3年から文政、天保を経て弘化2年まで)



鷹場の村

1806年、江戸は幕末前の太平の中にあった。将軍は11代の徳川家斉。この将軍、徳川将軍で最長の51年(1787〜1837)の在位年数があるのだが、妻や妾の数40人以上という暮らし振りのため個人的な浪費が多く、評判はよろしくない。現在の駒場キャンパスの敷地が将軍の鷹狩の場となったのは、暴れん坊将軍吉宗の享保3年(1718年)で今から300年も前のことだ。駒場キャンパスの北側には渋谷区と目黒区の境界があるが、その境界は武蔵国豊島郡と荏原郡を区分するもので、鷹狩の場の境界もこの古くからの郡境が使われていたようだ。

鷹狩というのは鷹を獲るのではなく、鷹に獲物を獲らせるというもの。鷹匠という専門家が鷹を操った。獲物は鶉(ウズラ)で、駒場に鶉の餌付けを担当する綱差しという人がいて、最低必要な3羽を確保できるようにしていたそうだ。鷹狩には多くの旗本が参加し、その準備などに道玄坂周辺の地域住民まで動員されている。 鷹狩で将軍は何をしたのだろう。馬に乗ってあっちだ、こっちだ、と走り回ったのか。馬で走りまわるといってもたかが知れている。面積は15万坪。18ホールのゴルフ場並みだ。小金井カントリークラブと全く同じ広さなのだから、勇壮な鷹狩とはいい難かっただろう。毎年10月から11月の間が鷹狩のシーズンだったらしい。

できレースとはいえ、無事獲物がとれると、駒場東大前西口から淡島通りに出る道を登って、現在の駒場エミナースのあたりにあった御用屋敷に入る。そこは薬草園の管理事務所でもあった。酒肴がでての宴会となったらしい。ゴルフコンペの後のパーティというところだ。「目黒のさんま」はここでの話ではないようだが、どんな料理だったのだろう。芸者はつくものだったのか。いずれにせよ、日没前には江戸城に帰るスケジュールだったろうから、あわただしい休憩だったかもしれない。

帰りは来た道を逆に江戸城に向かうわけだ。御用屋敷を出ると松見坂を下り、現在は暗渠となっている空川にかかる遠江橋を渡る。右手には松見坂地蔵がある。視線の右前方には丘の上の木立の中に大教寺の境内が見える。急な坂道を登ると駒場の谷間を挟んで富士山の眺望が素晴らしい尾根に出る。そこには豊島郡との郡境にもなっている三田用水が流れている。すぐにこれも急な下りの坂道を神泉の谷間に下りる。また坂を上ると大山街道との三叉路だ。現在の道玄坂上交番の交差点にあたる。道玄坂には冨士講という宗教団体の講元である吉田家が居をかまえていたが人家はまれだったようだ。茶畑の経営もしていたらしい。神泉の谷には時代が下って明治になってから弘法湯と呼ばれるようになる共同浴場があり、その先の松涛は紀伊徳川家の下屋敷であった。 道玄坂を下り、谷間の渋谷川を渡って比較的人家の多い宮益坂をのぼると赤坂見附に至る。江戸城に入るのにどの門を使ったのだろうか。馬の早足と推測すると、駒場御用屋敷を出て30分から1時間ほどの道のりだが、威厳を保ち時間をかけた行列だったのかも知れない。江戸から駒場までの将軍の騎馬での往復を映像にするとどんなことになるだろう。

松涛に紀州徳川家の下屋敷があり、菅刈に豊後岡藩の屋敷があったことから、そうした大名屋敷への勤労奉仕が周辺住民の負担になっていたかもしれない。現在の目黒区と渋谷区の境界が丘陵の尾根となっていて、そこから多摩川まで目をさえぎるものもなく、はるか富士山を望む景色は江戸の近郊でも名勝地だったようだ。江戸の町の賑わいとは縁のないただの農村の風景が広がっていた。

この200年前からの40年間、日本の人口は増えていない。一村落に過ぎなかったこの地域は日本中の農村と変わるところはなく、何の変化もない40年だったにちがいない。


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